学区の沿革
本学区は、延暦13年京都に都が遷されてから開けた所で、左京永昌坊の第2坊に属し、主として貴紳の邸宅に当てられていた。
今日まで史実に照らし数々の史跡を多く蔵しているが、中でも芸能文化の殿堂としての空也堂、天正10年6月2日(1581)戦国の武将織田信長が家臣明智光秀に不意打ちをかけられ最後を遂げた本能寺跡、
有名な山鉾蟷螂山があった。下って慶応4年戊辰8月京都府令書3に、「此度諸町番組左のとおり相定められ候、右は諸組の称呼相極め候迄にて全く番数をもって夫々等相極め候儀にはこれなく候條、
此旨相心得甲乙争い候の儀之あるまじく候事「辰8月」とあり、この布令書によると、上京45下京41の番になっている。そして本能学区の町名は、下京7番組に西橋浦町(西堀川三条下ル)・下京8番組に東橋浦町、
東壷屋町、西壷屋町、四坊堀川町、錦堀川町・下京9番組に池須町、柳水町、猩々町、本能寺町、六角油小路町、三条油小路町、元本能寺南町、橋東詰町、塩屋町、元本能寺町、越後町、越後突抜町、亀屋町、
三文字町・下京14番組に古西町東側、古西町西側(西洞院川のため)、藤本町、山田町、空也町、藤西町、蟷螂山町が属していた。
明治2年正月下京の番組の改組があり、41の番組が35の番組になった。これが本学区の基礎となっている。
明治5年5月下京第2区と呼称し、明治12年区を改めて下京第2組と称し、明治22年下京第2学区と称した。昭和4年下京第2学区を改めて、中京本能学区と呼ばれた。戦後学区制が廃止され元本能学区として
今日に至っている。現在、京都市の中心部にあって、東は西洞院通をもって元明倫学区に、西は堀川通をもって元乾学区に、南は四条通をもって元格致学区に、北は三条通をもって元城巽学区と境している。
東西420m、南北651mの矩形をなし、22町からなっている。
校地の歴史
本能寺については、その昔室町町時代のはじめ、妙顕寺第四世日斉の法弟日隆が応永22年(1415)に油小路高辻の地に本応寺を創立したが、妙顕寺第五世日明の徒により破壊されたので、永享5年(1433)
六角大宮の地に寺地を移し本能寺と改称された。
天文5年(1536)の法難には、叡山の宗徒に焼かれ、しばらく堺の町に退いたが、同年伏見宮貞敦親王王子日承によって、西洞院と堀川の間の四条坊門の北の地に再興された。当時は34余の塔頭境内子院に
囲まれていた。天正10年6月2日、織田信長を攻めた明智光秀の兵火にあい一山の堂塔を失った。この本能寺の変により歴史上有名となった。後に信孝が、父信長の廟を建てるために、本能寺は、
再度この地に復興をみることとなったが、たまたま、豊臣秀吉の区画整理により、天正17年東京極(今の寺町)の三条坊門(今の御池南の地)に移された。
また、京都名所案内記によると、本能寺は東は西洞院通、西は油小路通、南は錦小路通、北は六角通の間にあった大寺院と記されている。
現在、蛸薬師通小川の西南角に「此付近本能寺跡」(大正4年京都市教育会建立・寄附者本能自彊会)の石塔が建っている。本校は以上のように、歴史的に名高いの一部に位置している。本校の校名の由来も、
またこれに起因している。
邸 宅
本能学区は、延暦13年遷都以来、主として貴族の邸宅があったとされています。しかし、安元3年の大火以来、寛元4年、応仁の乱、寳永5年、天明8年、元治元年と数度の火災にあい、その度に全町焦土と化してきました。
また、そのつど復興し、元治元年の兵火後、ほぼ現在の町の原形ができあがったと思われます。今から125年前のことです。この間、どのような邸宅があったのだろうか。
【柳水町】 |
○織田信雄邸 町東側にあり、寛永の初め織田氏邸移転後、加藤忠廣及び岡部内膳の京藩邸となる。貞享以来和歌山徳川邸となり、明治3年2月8日廃邸となる。
○専念寺 町西側南にあり、永禄2年僧等雲により開かれる。元治元年兵火にあい、明治28年に本堂が再建されるが同37年に廃寺となる。
○鬼殿 町東側北にあり、藤原有佐の邸宅で安元3年4月28日焼亡する。
○崇徳上皇御所 柳水町西側より猩々町を超え三条油小路町東側に至る一町四方にあり、安元3年御所類焼後、藤原氏のものとなる。別名三条西洞院第 |
【池須町】 |
西洞院六角に町名由来のもととなった後鳥羽院の池があったとされているが詳細は不明。
○織田有楽斎邸 町西側にあり、元和7年以来茶屋長以の所有となる。また、東側には播磨熊野藩脇坂氏の藩邸があり、ともに明治3年廃邸となる。 |
【古西町】 |
町東側に薬師堂があったされるが、詳細は不明。 |
【蟷螂山町】 |
○右大臣源雅定邸 町東側南にあり、その後権現堂があったとされるが、興亡の詳細は不明。
○陳外郎宅 町西側にあったとされている。また、東側には肥前平戸藩松浦氏、西側には筑後久留米藩有馬氏の藩邸があり、明治3年廃邸となる。 |
【猩々町】 |
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【元本能寺町】 |
○本能寺 東は西洞院、西は油小路、南は錦小路、北は六角の東西一丁、南北二丁、四条坊門(現在の蛸薬師通)を中心として天文14年に再建された。
その後、天正10年本能寺の変により焼失する。また、元禄以来尾張犬山城主成瀬隼人正の邸があったが、その後、西洞院四条の南へ移された。 |
【三条油小路町】 |
町西側に藤原基武邸があったとされるが、興亡の年月は不明。 |
【六角油小路町】 |
○法華堂 六角油小路町に当たるとされているが、場所詳細は不明。文明6年7月13日、東軍の為兵火により焼失し、廃寺となった。 |
【山田町】 |
天正年間、山田左衛門の邸があった事に町名は由来している。その後、三河岡崎藩本多氏の京邸となり、天明大火以後民有地となる。
西方に竹林寺があったとされているが、場所詳細は不明。
○賀茂社 四条坊門油小路にありとされ、建久5年3月14日焼亡し、その後再建されなかった。
○藤原実季邸 四条坊門にありとされるが、場所詳細は不明。 |
【藤本町】 |
町名は慶長の頃、織田家の家臣藤本某の住居に由来している。また、大名寺山と称する山鉾があり、天明8年の火災により廃された。 |
【橋浦町】 |
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【壷屋町】 |
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【四坊堀川町】 |
○伊勢津藩藤堂屋敷 元禄以来、町東側にあり、明治3年廃邸となる。(現在の堀川高校の地) |
【錦堀川町】 |
○足利直義邸 町東側にあったとされるが、興亡の年月は不明。
○藤原師仲宅 町西側にあったとされるが、興亡の年月は不明。 |
【塩屋町】 |
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【橋東詰町】 |
荒神社児薬師堂があったとされるが、場所興亡の年月は不明。
○音徳寺 北側21番にあったが、明治元年自火により焼失する。 |
【本能寺町】 |
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【越後町】 |
○丹波笹山藩青山屋敷 町北側にあり、その後烏丸六角南に移されると共に、民有地となる。
○摂津高槻藩永井信濃守小堀仁右衛門邸 町南側にあり、壬生に移されると共に、民有地となる。 |
【越後突抜町】 |
○来迎庵 町東側に、寛永7年7月僧詮空により開かれ、慶安年間に移転後小堀邸となる。 |
【元本能寺南町】 |
元禄以来、町南側より山田町に亙り本多氏の邸があり、壬生に移されると共に、民有地となる。 |
【亀屋町】 |
○極楽院 町南側19番にあり、紫雲山光勝寺と号し、空也堂と称する。天正年間に現地に移される。 |
【空也町】 |
○空也寺 天録3年、僧空也により創建される。町名はこれに由来している。天正19年、京極高辻に移された。 |
【三文字町】 |
○古田重能邸 町北側にあり、元和元年重能自盡後、出羽山形藩水野氏邸となり、その後藤堂氏邸となる。 |
【藤西町】 |
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井 水
本能学区には古来数々の名水があり、茶湯に供されてきたといわれいる。とくに、柳水町東側の町名由来にもなった、織田信雄邸の『柳の水』。
壷屋町西側にあったと和名集に記された『富樫の水』。橋東詰町南側には日本記にある『小井』が有名である。
写し友禅発祥の地
【越後神社】
民家がぎっしり建ちづまった越後町には、ぽっかりと穴をあけたような空き地があって、『竜神さん』と『稲荷さん』のしょうしゃな社が仲よく並んでいる。
この『竜神さん』は今は埋め立てられて無くなった池の築山の真ん中にあり、その位置だけは少しも変わっていないといわれています。
今から約120年前、広瀬治助という手描き友禅の名人が仕上げの水を竜神さんの池に求め、写し友禅を考案したといわれています。